『戻らない彼』
「それじゃ、いってくるよ。すぐ戻るから……」
彼はいつものように笑って言った。
どうしてだろう?
いつもと変わらない彼のセリフ。
いつもと変わらない彼の笑顔。
でも、どこかが違う。
そして、それはあたしを不安にさせる類のものだった。
――イヤ! あたしも連れていって!
本当はそう言いたかった。
でも、あたしには言えなかった。
あたしは、ただ黙って彼を見送った。
あの時以来、あたしはソファーに座って待ち続けている。
彼とよく並んで座ったソファー。
彼はいつも優しく頭を撫でてくれた。
あたしは彼の温かい手が好きだった。
………………
もうどのくらいの時が過ぎただろうか。
彼はまだ帰ってこない。
でも、彼は「すぐ戻る」、そう言った。
あたしは彼を信じて待つしかない。
それなのに、出会ってから今までの楽しかった記憶が、次々とよみがえってくるのは何故だろう。
窓の外に見える灰色の空が、あたしをいっそう不安にさせた。
ふと気がつくと近くで声がしていた。
どうやら眠ってしまったらしい。
しかし、聞こえてきたのは彼の声ではなかった。
「……まだ生きてるみたいだし、一応病院に連れていったほうがいいんじゃないか?」
「病院ったって……」
「ほら確か、近くにあっただろ、動物病院。」
「保健所のほうがいいんじゃないか?飼い主死んじまってるんだし。」
――死んだ? 彼が?
嫌な予感が当たってしまった。
あたしは後悔した。
たとえしゃべることができなくても、彼を引き止めることくらいできたはずだ。
あたしがこぼした一滴の涙は、瞬時に深い毛の中に埋もれてしまい、頬をつたうことはなかった。
「ホント迷惑なやつだよな。借金とりがガラでもなく、犬なんか飼うんじゃねえっつーの。」
あたしは思いっきり咬みついてやりたかったが、口をあけることさえままならなかった。
彼が悪く言われるのを、ただ聞いているしかなかった。
「おまえもかわいそうにな。借金とりなんかに飼われて。」
――違う……
「それにしても八十のばあさんに刺されるなんてよっぽど鈍いやつだな。」
――違う……
「まあ結構ムチャな取り立てしてたらしいし、自業自得だろ。」
――違う!
あの人はそんな人じゃない。
おばあさんのナイフをよけることなんて簡単だったはずだ。
あたしにフリスビーを投げる彼の動きは、とても軽やかだった。
よけられなかったんじゃない。
よけなかったんだ。
彼はあたしの頭を撫でながらよく言っていた。
「本当はこんな仕事したくないんだ。」
でも社長に恩義があるとかで、やめられなかったみたい。
その恩を返そうと一生懸命働くから、人一倍恨みをかうというようなことも言って いた。
そして、それがつらいとも……
彼は人とつきあうことを避けていた。
人の情にふれることで、借金の取り立てがおろそかになってしまうことを恐れたのだ。
そこまで自分を追い込まなければ、この仕事を続けられなかった。
本当は人一倍優しい彼だから。
彼がよけなかったのは、きっとそのおばあさんのため。
警察に捕まった方が借金とりに追われるより楽だから……
あの人はあたしを拾ってくれた。
ゴミ同然に捨てられていたあたしを。
雨の中で震えていたあたしを。
そして、温かいミルクをくれた。
一緒に遊んでくれた。
いっぱい撫でてくれた。
そして、愛をくれた……
そうだ。
天国に行けば、また一緒に暮らせるよね?
また優しくしてもらえるよね?
そうだよね?
すぐに行くから、待っててね。
ご主人様。
あとがき
これもとあるコンクールサイトさんに投稿したものですが、ボロボロにされてしまいました。(コンクール投稿時の題名は『残されたものは……』)
そんなこんなで載せようか載せまいか迷ったのですが、結局載せることにしました。
少しでも何かを感じてくれる人がいてくれたら、うれしいです。
自ら改めて読みなおしてみると、タメがまったくないですね。
僕は短い作品を書くには無駄な表現を省いてテンポよくすすめればいいと思っていたのですが、それは間違いだったようです。
うまく描写してあげれば、短い中でもキャラや背景をひきたたせることができるのだということを教えられました。
この作品は犬の視点で、犬の気持ちをうまく表現できたらなと思って書きました。
しかし、キャラがたってないですよね、犬、飼い主ともに。
時間がたって読み返してみると、自分でも『これで終わり?』という感じを受けました。
いろいろ勉強になったので、この作品を転機として、一皮むけた作品が書けるようになればなと思っています。