『命尽きるまで』


 今夜は満月ね……
 あたしはこの期に及んでも、のんびりとそんなことを考えていた。
 月明かりに照らされ、不気味な光を放っているそれは、カチカチと時を刻んでいた。
 今日が終わるまであと1時間。
 そして、それはあたしの人生が終わるまでの時間と一致するかもしれない。
 しかし、それほど怖くはなかった。
 これはあたしが自ら望んだことなのだ。
 それにまだ死ぬと決まったわけではない。
 命の尽きるその瞬間まで、あたしは彼を信じているだろう。


 あたしが彼、沢木登に出会ったのはちょうど1年前。
 彼はあたしの配属された部署でバリバリ働いていた。
 彼はあたしにやさしかった。
 いや、やさし過ぎた。
 あたしが彼を好きになるまで、ほとんど時間はかからなかった。
 彼には妻子がいた。
 でも、そんなことは関係なかった。
 あたしには彼が必要だった。
 そして彼もあたしを突き放すようなことはしなかった。
 あたしたちは社内メールで連絡をとりあった。
 この部署にコンピューターを導入したのは彼であり、今でもシステム管理者は彼である。
 そして、この部署には彼のほかにコンピューターに詳しい者は誰もいない。
 さらに用意周到な彼は万が一誰かに見られても、すぐに誰だかわからないように、メールに本名を書かず、イニシャルを使うことを提案した。
 彼は沢木登だから、N.S。
 あたしは山下亜由美だから、A.Y。
 だから、あたしたちの関係は、奥さんはもちろん、社内の人にも気付かれていないだろう。
 彼は今でも出会ったころと同じようにあたしにやさしい。
 あたしといる時に家族の話は絶対にしない。
 だから、最初のうちは彼に家族がいることを全然意識しなかった。
 でも最近ふと不安になるのだ。
 そして、その不安は徐々に増してきていた。
 特に将来のことを考えると、どうしようもないくらいの不安が襲ってくるようになった。
 彼に言おうと思ったが言えなかった。
「じゃあ別れよう」
 そう言われてしまうのが怖かった。
 そして、誰にも相談できなかった。
 誰にも気付かれていないことが、逆にあたしを苦しめていた。


 爆弾はネットで購入した。
 最近ではこのくらいのものは簡単に手に入る。
 威力を試してはいないが、至近距離でなら人ひとり殺せるくらいの力はあるだろう。
 あたしはここへ来てまず爆弾をセットした。
 それから、手錠を取り出し、その鍵を自分から離れた位置に置いた。
 そして、鉄パイプをくぐらせてから自分に手錠をかけた。
 これで途中で決心が鈍っても逃げることはできない。
 あとは彼がメールを読んで暗号を解き、ここに来てくれるのを信じて待つのみだ。
 彼に送ったメールはこうだ。


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N.Sへ

たぶんあなたがこのメールを読んでいるころ、あたしは爆弾の前に座っていると思う。
タイムリミットは深夜0:00。
この暗号を解いてあたしを助けにきて。

社長、専務、部長、課長
部長の前後には愛が3つ足りない


初めてのデートの時のこと、あなたが覚えていてくれたら、きっとこの暗号も解けるはず……
それじゃ、待ってるから。

A.Yより
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 彼がメールを読むのは仕事終わりの帰り際、通常9時ごろだ。
 爆弾が爆発するのが0時ちょうど。
 3時間あれば暗号を解読してここまで来てくれるだろうとあたしは思った。
 しかし、彼がまともにとりあってくれなかったら、あるいは今日に限ってメールを確認しなかったら……
 それならそれでもいい。
 あたしは最期まで彼を信じる。
 そうすれば、絶望に苦しむことはない。
 絶望と同時に死が訪れる。
 そんなことを考えながらぼんやりときれいな満月を見上げていると、彼と初めてデートをした日のことが思い出された。


 あの日も確か満月だった。
 彼はあたしを夜景の見えるレストランに連れて行ってくれた。
 それほど高級なレストランに入ったことのなかったあたしは、かなり緊張していた。
「え〜っと……」
 たくさん並べられたナイフとフォーク。
 どれを使っていいのかわからず迷っているあたしに、彼はそっと教えてくれた。
「一番外側から使えばいいんだよ。」
「ああ、そうなんだ……」
 真っ赤になってしまったあたしを見て、彼は目を細めた。
 その後、どういう経緯だったか、会社の話になっていた。
「うちの社長の名前なんていうか知ってる?」
「え〜っと、牛島恭介さんでしたよね?」
「そうそう、よく知ってたね。知らずに入ってくる娘多いんだけどね。その他にうちで力を持ってるのが専務の相模明、そして部長の知野源三、あとは課長の平山里志かな。出世したいのなら覚えておいたほうがいいかもね。」
「へ〜そうなんですか。専務って社長の次に偉い人でしたっけ?」
「まあこの中ではね。」


 カチカチ……
 彼女を思い出から現実に引き戻したのは爆弾につけられたタイマーの音だった。
 ふとタイマーに目をやると、残り時間は3分をきっていた。






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